アジア資源地帯をめざしまずマレー半島上陸
「紀元節*」2月11日を期してアジア制圧
「大東亜共栄圏」束の間の勝利に陶酔
*当時、神話上の初代天皇神武天皇即位の日とされ、日本の紀元(皇紀)の始めとして祝われていた。
日本の最大の戦争目的は、アジアの資源地帯、とりわけ蘭印[オランダ領インドネシア]の石油確保にあった。その鍵はフィリピン、マレー攻略だった。なかでもシンガポールは、イギリスの極東支配の要であり、イギリスの東洋艦隊が配されていた。マレー作戦の成否はこのシンガポール攻略にあった。
昭和 16 年 12 月 8 日午前 2 時 15
分、山下奉文軍司令官率いる第 25
軍の先遣隊は、マレー半島中東部のコタバルに敵前上陸した。真珠湾攻撃に先立つこと
1 時間 20
分、これは太平洋戦争の最初の戦いだった。上陸した佗美支隊は翌
9 日、コタバル市を占領した。
*
8 日未明、第 25 軍主力はマレー半島北部のタイ領シンゴラに、別動の安藤支隊は同領パタニに上陸した。南面の海側に防備を築くシンガポールの背後をつくため、マレー半島を 1100 キロ南下しようという作戦である。
自転車によるいわゆる「銀輪部隊」の侵攻
上陸作戦と同時に第三飛行集団による北部マレーの飛行場爆撃と、南部仏印[フランス領インドシナ=現ベトナム]から飛び立った海軍航空隊によるシンガポール空襲が行われた。12 月 10 日、マレー沖ではイギリス東洋艦隊の「不沈艦」と呼ばれたプリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを撃沈し(マレー沖海戦)、日本軍は開戦 3 日目で制空権・制海権を握った。
今日のクアラルンプール
17 年 1 月 11
日、日本軍は英領マレーの首都クアラルンプールを無血占領し、1
月 31
日にはシンガポール島を臨む、ジョホールバルを占領した。上陸開始から
55 日、95 回の戦闘を重ね、1 日平均 20
キロのスピードで南下したのだった。
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2 月 8 日朝、日本軍はジョホール水道越しに、シンガポール島へ激しい砲撃を加え、第 1 陣 4000 人が同島北西部に上陸した。(中略)
2 月 10 日から 3 日間にわたって、同高地で激しい白兵戦が展開され、両軍とも死傷者が続出した。しかし 15 日、日本軍は島最南端の要塞を占領し、シンガポール市への水源地を抑えた。
15 日午後 2 時、停戦交渉のため英軍の軍使が現れ、午後 7 時、ブキテマ北部のフォード自動車工場の一室で山下・パーシバル会談が開かれた。山下軍司令官の「イエスか、ノーか」の問いにパーシバル中将は無条件降伏を受諾し、シンガポールは陥落した。
講談社『昭和 2 万日の記録』(6)