社会生物学論争は、1975 年にハーバード大学のウィルソンが『社会生物学』と題された大きな書物を出版したことに端を発する。それは、動物行動学についてのそれまでの研究成果をもとにして書かれたものである。本書が激しい論争をひきおこしたのは、まず第一にその表題、つまり「社会生物学」(sociobiology)という言葉それ自体にあった。表題が例えば、「動物行動学の基礎」といった中立的な表題ではなかったことがまずショッキングであった。「社会生物学」という言葉は、「社会進化論」や「社会ダーウィニズム」を連想させる名前であった。それが人々に警戒心を引きおこした。実際その後も「社会生物学」という言葉は適当ではなく、「動物行動学」(ethology)の方を使うべきだという主張もあり今日にいたっている。
ウィルソンの書物は、ただ単に表題だけでなく内容的にもそうした警戒心を引きおこすようなものが含まれていた。人間以外の動物についての研究成果が、人間の行動の理解についても示唆するところがあると述べられていたからである。このことは、社会生物学は、社会進化論や優生学の今日的復活ではないかという疑いをひきおこし、1975年に本書が出版されると、アメリカのボストン地区の科学者で組織された「人民のための科学―社会生物学研究集団」というグループが結成された。この中には、グールドやレウォンティンなどの有名な科学者が含まれていた。彼らは『ニューヨーク・レヴュー』上に公開状を出し、ウィルソンの社会生物学は、優生学と同じように人種差別や男女差別を正当化するものであると批判した。1976 年の「科学の進歩のための全米協議会」の年次総会シンポジウムでは、ウィルソンの講演が予定されていたが、若手の科学者がウィルソンは人種差別主義者でありファシスト科学者であるなどと書いたプラカードを持って壇上にかけ上がる事件もおこった。
出典:横山輝雄『生物学の歴史−進化論の形成と展開』放送大学教育振興会、1997。