最初の敗退、緒戦の勢い止まる
戦局の主導権、アメリカの手に
大本営、敗北の真相を隠ぺい
真珠湾空襲後の東南アジアにおける破竹の進撃をはじめ緒戦の勝利は長くは続かなかった。ミッドウェー海戦における最初の敗北である。山本五十六(いそろく)連合艦隊司令長官の強い希望で行われたこの作戦は、待機していた米軍の逆奇襲によって大敗北に終り、2 日間の海戦で空母(航空母艦)4、重巡(重巡洋艦)1、3,500 人の人命と 322 の艦載機を失った。他方、米軍は空母、駆逐艦各 1、兵員 307、航空機 150 機の損害にとどまった。これにより太平洋における主導権は米海軍の手に移り、わが国は次第に敗勢へと追い込まれて行くことになった。ほどなく南西太平洋方面からアメリカ軍の大反抗が始まる。
真珠湾で無傷の空母「ホーネット」から発進した米軍機 B25 16 機は、昭和 17 年 4 月 18 日、東京その他を空襲する。4 月 19 日の『朝日新聞』は、「我が猛撃に敵機逃亡」「敵機は燃え、撃ち、退散」「初空襲に一億沸る闘魂」などの見出しでこの空襲を伝えた。首都防衛にあたっていた東部軍司令部は、「皇室のご安泰に亙らせられる事は我々の等しく慶祝に堪えざるところなり」と発表した。しかし、この空襲が与えた衝撃は大きかった。それは、アメリカ機動部隊を探し出し、真珠湾で撃ち洩らした空母を殲滅することを狙ったミッドウェー作戦が、一部の反対を排して強行される心理的動機ともなった。
基地攻撃に向かったわが飛行機も、米軍は十二分の準備を整え所在の航空機は全部空中に待機し、その戦闘機隊は約 30 浬前方で味方機に強襲してきた。ここに激烈な空中戦が起り、米戦闘機はほとんど全滅したが、地上の防禦砲火は熾烈を極め、施設の爆破、炎上を見て第一次攻撃隊は引き上げる外はなかった。
指揮官南雲[忠一]中将は、基地攻撃の効果不十分と認めて第二次攻撃を決意し、それまで米機動部隊に備えた攻撃機の雷装[魚雷の装備]を、対地上用爆弾に転換中、東方に敵機動部隊出現の警報に接したのである。爆弾を再び雷装にかえ、発進の準備に熱中しているところ僅か数分の差で、米機動部隊の急降下艦爆[艦上爆撃機]約 30 機が襲いかかった。(註:ヨークタウン 13、エンタープライズ爆撃機 37)[空母]赤城、加賀、蒼龍(そうりゅう)に各々 2 乃至 4 発の命中弾があり、発進準備中の飛行機の魚雷、爆弾の誘発は忽ちにして 3 艦を火焔の中に包んだ。機動部隊空母の残った飛龍(ひりゅう)ただ一隻(註:他の空母は攻略部隊と北方部隊に在り)は敵の 3 空母ホーネット、エンタープライズ及びヨークタウンと雌雄を決しようと、まず攻撃隊 24 機を発進した。決死の攻撃隊は米戦闘機の阻止を排除して、ヨークタウンに 3 発の命中弾を与えてこれを大破した。第二次攻撃隊は、ヨークタウンに魚雷二発を命中させ、サンフランシスコ型巡洋艦 1 隻にも大損害を与えた。不撓の勇気を振った飛龍は、数次の攻撃のため搭載機を消耗したため、大破落伍した赤城、加賀の在空機を集め 15 機をもって最後の攻撃準備中に、エンタープライズの急降艦爆 13 機が来襲して 4 発の命中弾を加え、遂に飛龍も戦闘能力を失うに至った。
先に傷ついた赤城、加賀、蒼竜は大火災中を更にホーネット、ヨークタウンの雷撃機隊に襲われ相次いで沈没し、今や飛龍も被害を蒙るにいたったので、同艦を護って北西方に避退した機動部隊は、聯合艦隊命令によってミッドウェー攻撃を中止し、他の諸部隊もそれぞれ反転して基地に帰ることになった。
ミッドウェー敗戦は太平洋戦争の大転機を劃したのである。ハワイ、マライ両海戦の戦果によって、空母勢力の優越を確保し、搭乗員の優れた技量とともに、国力その他全般の憂鬱な形勢の中に、仄かな希望の光を見せていたのが、ここに勝利の油断から全く解消するようになって、作戦の主動性を米軍に譲りわたす破目におちてしまった。(高木 惣吉 『太平洋海戦史(改訂版)』岩波新書)
ミッドウェー海戦は、戦局の転換点となる。6 月 11
日の『朝日新聞』は「太平洋の戦局此一戦に決す」という見出しで、「今次の一戦において米航空母艦勢力を殆ど零ならしめ太平洋覇権の帰趨全く決した」と書いた。そして、米空母「エンタープライズ」「ホーネット」の
2 隻を撃沈したという、大本営発表を掲げている。
しかし、真相は全く逆であった。「ホーネット」は後にたしかに日本海軍に撃沈されたが、それは同年
10 月のソロモン沖海戦の際であった。6 月 10
日の大本営発表は、わが方損害として、航空母艦 1
隻喪失、同 1
隻大破としているが、実は「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の空母を一挙に失い、連合艦隊は大打撃を受けた。アメリカ側は空母「ヨークタウン」を失っただけであった。この頃から、「大本営発表」が事実を伝えず、海戦のたびに勝った勝ったと叫ぶようになる。現在では「大本営発表」といえば、当てにならぬものの代名詞と化している。(朝日新聞社『日本の歴史』―中途挿入部分を除く)
「大本営発表」(昭和 17 年 6 月 10 日午後三時三十分)
東太平洋全海域に作戦中の帝国海軍部隊は六月四日アリューシャン列島の敵拠点ダッチハーバー並びに同列島一帯を急襲し四日、五日、両日に亙り反復之を攻撃せり、一方同五日洋心の敵根拠地ミッドウェーに対し猛烈なる強襲を敢行すると共に、同方面に増援中の米国艦隊を補捉猛攻を加え敵海上及航空兵力並に重要軍事施設に甚大なる損害を与えたり、更に同七日以後陸軍部隊と緊密なる協同の下にアリューシャン列島の諸要点を攻略し目下尚作戦続行中なり、現在までに判明せる戦果左のごとし
一、 ミッドウェー方面
(イ) 米航空母艦エンタープライズ型一隻及ホーネット型一隻撃沈
(ロ) 彼我上空に於いて撃沈せる飛行機約百二十機
(ハ) 重要軍事施設爆破
二、 ダッチハーバー方面
(イ) 撃沈破せる飛行機十四機
(ロ) 大型輸送船一隻撃沈
(ハ) 重油槽群二ケ所、大格納庫一棟爆破炎上
三、 本作戦における我が方損害
(イ) 航空母艦一隻喪失、同一隻大破、巡洋艦一隻大破
(ロ) 未帰還飛行機三十五機
制作中