「パレート原理」は社会科学的に見てかなり合理的な集団的意思決定の基準で、ことに経済学者からは社会状態のよさの評価(社会厚生関数という)の要素として結構便利だとよく使われている。この原理の野放図な適用に対する批判も従来から多い。有名なセンの「リベラル・パラドックス」がそれである。『チャタレー夫人の恋人』
Lady Chatterlay's Lover
(作者はイギリスの現代作家ローレンス D. H. Lawrence)という、当時では「わいせつ文書」とされた文学作品をめぐり、マジメ人間と好色家が論争するゲームを考える。まず、当然、2
人の間でパレート原理を仮定する。次に、「自由」の原理 各人にとって、読む、読まないはその当の本人の判断を優先する を認める。皆さんこれはいいでしょう。そういうわけで、ある自然な価値の優先順位(選好順序)が定まる。ところがよくよくみると、オドロイタことに、各人にとって 読むより読まないのがよく、かつ読まないのが読むよりはよい というよくワカラナイ困った結果が導かれているのである。困リマシタ。 ☆ 『チャタレー夫人の恋人』:戦争で夫が性的不具になった妻と森番の男性の交際の物語。日本では戦後英文学者・東工大教授伊藤整(「火の鳥」「ある詩人の肖像」で有名)の訳がわいせつの罪に問われ、出版社社長ともども有罪判決を受け、英文原文も刑法上同一の判断となった。 |
読む読まないは本人の「自由」! |