米、日本の大陸侵略に不快の念
陸軍の態度強硬、大陸撤兵拒否
交渉決裂、事実上の最後通牒交付
開戦時における昭和天皇の態度
全体の流れ
1941(昭和 16)年 6 月に、独ソ戦争が開始され、7 月、これに対応するためにひらかれた御前会議は、対米英戦を覚悟の上の南方進出と、情勢有利の場合のソ連攻撃とを決定した。いっぽう第 2 次近衛内閣は日米交渉の継続をはかり、それに反対していた松岡[洋右]外相をのぞくため、いったん総辞職した。第 3 次近衛内閣が組織された直後、すでに決定されていた南部仏印[今日のベトナム]進駐が実行に移されたが、アメリカは対日石油禁輸の措置をとり、両国の関係は険悪の度を加えた。アメリカは日本に経済制裁を加えることで、その対外進出を抑止しようとした。しかし、それはかえって軍部に危機感をつのらせ、戦争にうったえる以外には、いわゆる ABCD[米・英・中華民国・オランダ]包囲陣による圧迫をはねかえせないという主張を強力なものとした。
9 月 6 日の御前会議は、10 月上旬までに対米交渉がまとまらない場合の対米(英・蘭)開戦を決定した。日米交渉は、満州をのぞく中国からの日本軍の全面的撤退・三国同盟の事実上の死文化を要求するアメリカと、それに反対する日本との間に妥協をみいだせないまま 10 月上旬をむかえた。なお日米交渉を継続しようとする近衛首相と、交渉打ち切り・開戦を主張する東条陸相が衝突し、近衛内閣は総辞職した。
木戸幸一内大臣は、9 月 6 日の御前会議の決定を白紙還元することを条件として東条を総理に推挙し、東条内閣が成立した。東条内閣は 9 月 6 日の決定を再検討したが、結論は同じであった。開戦必至とみたアメリカも戦争を決意し、11 月末には満州事変以前の状態への復帰を要求したので、交渉は絶望的となった(『世界史』山川出版社).
いわゆる「ハル・ノート」(事実上の最後通牒)
ハルは二十六日午後四時四十五分、野村、来栖両大使をよんで、暫定協定を除いた一般協定案を手交した。それは、焦点の中国問題については次の二点を指示し、なんらの留保をも許していなかった。
一、 日本国政府は、支那〔中国〕および印度支那〔インドシナ〕よりいっさいの陸、海、空軍兵力および警察力を撤収すべし。
一、 合衆国政府および日本国政府は、臨時に首都を重慶に置ける中華民国国民政府以外の、支那におけるいかなる政府もしくは政権をも、軍事的、政治的、経済的に支持せざるべし。
(臼井勝美『日中戦争』中公新書)
註) 暫定協定 アメリカが時間的余裕を確保するための交渉継続案(同月 22 日)。
その妥協的内容から蒋介石(重慶国民政府)の熾烈な反対に会い、かつイギリス(チャーチル)も実質的に不同意であったため撤回されたが、原則部分(一般協定案)は残った。
自分はこれら形勢の推移を観望しながら本国の情勢に少なからざる憂慮の念を持した。支那事変 [日中戦争の日本側呼称] は日に日に拡大し、重慶政権 [抗日戦のため四川省重慶に退却した国民政府] を制圧するの方策なく、ために一九三九年六月来日の汪精衛 [日本が中国国民政府に対して樹立したかいらい政権] と計って事変を収拾せんとした。米大統領は曩に市俄古(シカゴ)に隔離演説を行って以来ますます重慶政府に対する援助を強化したが、一九三九年七月遂に日米通商条約を廃棄するの予告を発して、日本に経済的圧迫を加うるの意図を明らかにした。日本政府はこれに対し暫行協定の締結を懇請するの態度を以てしたが、米の顧みるところとならなかった。米が通商条約を廃棄せし趣旨は素より明らかで、日本に重圧を加えんとするにあるのであるから、如何に懇請すればとて、日本が支那事変による方策を根本的に変更せざる限り、暫行協定締結に応ずることなきは初めから明らかであった。(東郷茂徳『時代の一面』)
「撤兵問題は心臓だ。撤兵を何と考えるか、陸軍としてはこれは重大視しているものだ。米国の主張にそのまま服したら支那事変の成果を壊滅するものだ。満州国をも危くする。さらに朝鮮統治も危くなる。帝国は聖戦目的にかんがみ非併合、無賠償としておる。支那事変は数十万の戦死者、これに数倍する遺家族、数十万の負傷兵、数百万の軍隊と一億国民に、戦場及び内地で辛苦を積ましており、なお数百億の国幣を費やしているものであり、普通世界列強なれば領土割譲の要求をやるのはむしろ当然なのである。しかるに帝国は寛容な態度をもってのぞんでいるのである。駐兵により事変の成果を結果づけることは当然であって、世界に対しなんら遠慮する必要はない。巧妙なる米の圧迫に服する必要はないのである。
北支蒙彊 [華北、モンゴル、中国西北部] に不動の態勢をとることを遠慮せば如何なりますか。満州建設の基礎は如何なりますか。将来子孫に対し責任の禍根をのこすこととなり、これを回復するため、またまた戦争となるのであります。満州事変前の小日本に還元するならまた何をかいわんやであります。撤兵を看板にするというが、これはいけませぬ。撤兵は退却です。・・・・・駐兵は心臓である。主張すべきは主張すべきで、譲歩に譲歩、譲歩を加え、そのうえにこの基本をなす心臓まで譲る必要がありますか、これまで譲りそれが外交とは何か、降伏です。」(臼井勝美『日中戦争』中公新書)注) この 2 日後、近衛(文麿)首相は内閣(第 2 次近衛内閣)を投げ出し、若干の紆余曲折を経て東條英機が総理に推挙されたが、内閣成立後日米開戦となるまで 2 カ月もなかった。
「それは是非やれといわれれば、初め半歳や1年の間はずいぶんと暴れて御覧にいれる。しかし2年3年となれば全く確信はもたぬ。」(1940年9月、山本五十六連合艦隊司令長官)