歴史観と人物論

松本清張 vs. 司馬遼太郎

「関が原」における家康と三成の評価

「重役どもをくどく有能秘書課長」


1600 年(慶長 5 年)の天下分け目の「関が原の戦い」が家康の東軍の勝利に帰した直接の原因は、九州の大名小早川秀秋の東軍への寝返りであった。となれば、三成に思いを寄せる者には、秀秋の裏切は勝てる戦いを失わせた憎むべき業である。もちろん、秀秋は「武士」の風上にもおけない恥ずべき輩として歴史に残ろう。このように上からかぶせていくのが、司馬遼太郎の基本発想である。

実際のところ、司馬は『関ヶ原』(下)でのっけから秀秋を容貌醜く貧相な「うつけ者」(おろか者、のろま)に描き、「叛応」の段では、作中人物に「金吾なるもの(秀秋)は、千載の醜名を残したぞ。裏切り者を倒せ」と言わせている。司馬といえども、秀秋が士(武士)ではなく将(武将)である(したがって、裏切りも戦略の一として許される)ことを知らぬわけはないが、結局この考え方を一顧だにしない。むしろ「醜名」が司馬がその秀秋に与えている一貫した評価をあらわしている点が、まさに司馬の主意であろう。武士道(司馬は徳義といっている)が後世徳川期の道徳であることは司馬も承知の上である。となると、この評価がことさらなるものであることは疑いない。

松本清張は「武士道」はそもそも関係ないという。実際、どちらにつくかは秀秋個人の徳義で決まるものではなかった。そこに一族、一国の存亡の運命が切実にかかっているのだから、当然、利害・得失、見通しで判断せねばならない。三成に賭けていいのか否か。それに値しないなら、秀秋の判断のおもむくところはあらためていうまでもない。

以下は構成対談である。

司馬
三成は、やっぱり勝てると思っていましたよ。圧倒的な勢いで家康をやっつけることができるということを、合戦のおそらく十日ぐらい前までは確信していたでしょうね。
松本
関が原の事前の形勢は、家康の側からいえば、これは絶対わが方の勝ちであると確信していた。関が原の合戦というのは、ある意味では家康が挑発(*)したんで、それくらいにちゃんと戦略も作戦計画もできているんですから、これはもう疑いもなく家康は東軍の勝利を確信していた。しかもそれは科学的な確信に近かったと思いますね。
司馬
「19 万 4 千石の三成は、これはつまり銀行信用のない存在でしたでしょう。それでよくまああそこまで人をかき集めてやったと思うんですけれども・・・」
松本
「三成の地位が秘書課長だという司馬君のたとえは適切だと思うんです。しかし有能な秘書課長がみんなをくどいて、とくに重役どもをくどいて、いっしょにやってくださいといくら言ったところで、これは彼の思うとおりには立ち上がらないと思う」

NHKブックス  半藤一利 (2002)『清張さんと司馬さん』NHK出版

さて、実際に歴史を動かしたのは武士道か、それとも利害・得失、我欲か。どう歴史を見るのか。人は何に動かされるのか。皆さん、どう思われますか?

*)よく知られるように、前田利長に対する挑発は利長が見破ってこれに乗らず、ついで会津の上杉景勝に対する挑発には景勝がひっかかり、会津遠征が号令、発動された。関が原の戦いはこの景勝征伐に触発された三成の反抗から起こった。


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