本章には「おわりのことば」としてのメッセージの意味も入れました。
ここでは、まず市場社会での生産と消費、分配という経済活動を念頭において、いくつかの数理的説明をしたのち、環境問題でもわかるように、それを純粋「経済学的」思考の枠にとどめるのでなく、法・政治、倫理・哲学、宗教にひろくかかわるひろがりをもつ人類的課題であることを、わかりやすい形で述べたいと思います。なお、政策とか計画とかいいましたが、それは厳密な意味でなく、何かを「行う」「決める」という立場をやや強調したかったためです。
数理的には、線形計画法 LP、投入産出分析 IO
(産業連関分析)を学び、さらにここでもパレート原理に触れましょう。
また、これからの世界の政治経済学、環境問題(国際公共政策)を意識して、囚人のジレンマ(スーパー・ゲーム)もより実証的な形で扱ってみました。
なお本章は各節独立に読めます。
1985 産業連関表をネットからダウンロード (2006.12.4 民間消費支出訂正)
社会を理解するためには生産を理解することが重要です。
そのしくみを理解するために、まず生産関数を考えるのがふつうですが、それは経済学の本論にまかせ、ここでは有限資源のもとでの生産のしくみを理解するために、「線形計画法」
LP
を取り上げてみました。この発想は、環境問題を考えるうえでも有効です。
LP
は多くの方面で役に立つ有名な方法であるのみならず、大変理解しやすいので、高校1年生でもわかります。実際、(1.1)
- (1.4)
を知ると、「文科系」の人でも、ああなんだ、このことか、とひざを打つ人も多いでしょう。
環境資源の利用の価値 |
ここから、もう少し深い内容に進んでみましょう。それは「シャドウ価格」という考え方です。たとえば環境を利用するといくらの価値が生まれたことになるのか。環境税などを考えてゆくとき、必要になりましょう。一般に資源の(潜在的)市場価値がシャドウ価格ですが、環境の時代には必要な考え方ですね。
「ラグランジュ乗数法」も、大学時代に習う方法ですが、十分な解説がされないのが欠点ですね。ここでは、説明をいれましたが、やや専門的かも知れません。
生産と消費(さらには次ぎの生産)、社会における所得の分配について考えるためにも、また最近われわれに不可欠な環境問題の基本理解のためにも、つまりはわれわれ人類社会の基本メカニズムを知るためには、この投入・産出分析 IO (産業連関分析)の骨格を押さえておくのが早道でしょう。このような見方はケネーの「経済表」にはじまりますが、実際この分析はよく実施されています。企業・官庁で活躍したい人には必須です。
生産と消費の均衡 |
ここでは、線形計画法との関連から入りましたが、少し難しかったかも知れません。(2.6)
から (2.11) へ飛ばしても可能です。
なお、すぐ気づくように行列と行列式の初歩の勉強になります。簡単ですから、これを例にして一気に学んでしまいましょう。
巻末(数学付録4節)も援軍に加えると完璧です。
「公共性」 communality
ということばは最近聞いたことありますか。難しく聞こえるかもしれませんが、お互いによく知らない人々がどうやって仲良くできますか、どうやって一緒に仕事ができますか、どうやってよき社会がつくれますか。人間は神や聖人でなく、エゴイストという面が否定できないからです。ことによく知り合っていない人の間(これがふつう)ではよけいそうです。これはけっこう難しい問題です。地球の将来、環境問題、戦争と平和の問題にも通じています。
これをおもにゲーム理論から考えましょう。
学問的には公共経済学あるいは政治学の章ですが、それはむしろ応用の話で、囚人のジレンマから協力を導き出すという最近の話題について触れています。TIT-FOR-TAT(「お互いさま戦略」)とか、どれくらい協力が生じうるかを、「繰り返しゲーム」「スーパーゲーム」いう進んだしくみの中で考えて行きます。
囚人のジレンマをくりかえす実験(ラパポート、チャマーの実験) 縦軸はそこまでの協力 C の確率。 しばらくは裏切り D に対し D で対処する過程(これは合理的!)があるが、次第に協力 C に対して C の戦略が、 長い目でみて双方の利益になることが逐次学習されていくようになる。 |
ここは一言でいえば、社会的判断基準としての「パレート原理」の吟味(ややむずかしくいうと「批判」
Kritik)です。またこれと強く結びついている「市場」批判です。大変骨の折れる、また迷い易い問題です。パレート原理とはみんなが「良い」といったとき(そしてそのときだけ)社会として「良い」という判断になる、という原理です。
たとえば、現在アメリカの経済学者コースの有名な「コースの定理」はその論理の強力なことを云っています。いまでいえば公害の例で、「加害者」と「被害者」が”お金で”両者納得して妥協すれば、関係者がみなそれでいいと云っている以上、法や規制で政策介入するのは政府の役割ではなく、第一それは実効をあげないだろう、というものです。これは法学者から一定の批判を招きました。
筆者はパレート原理は自然なもの(自然科学的)なもので、複数の個人を平等に考えてゆけば、極めて自然に(つまり、すなおに、あたりまえに)この原理に到達すると思っています。つまり、論理の極致であって、それ以上でも以下でもありません。何の崇拝すべきまた非難すべき要素もありません。
この先は、倫理と宗教の世界です。そこでは基本思考を切り替えねばなりません。
切り替わっていないと、不可知論となります。パレート原理より先を考えてはいけない、と思っている人が多いのですが、科学だけでは考えきれないといっているだけで、考えてはいけないというのではありません。
最後に、パレート原理のゆえに、決して「市場」に対する警戒心を解いてはいけないことをのべました。規制緩和の時代に、「市場」が新しい幸福や救いの原理のようにいわれていますが、決してそんなことはありません。いつの時代にも「にせ予言者」は究極真理のような顔をしています。
有限な人間は決して真理に到達できないが、しかし、それを追求、探求していくことに人間の尊厳があるともいえましょう。